ニーチェの言う三段の変化とクリエイティブシンキング

中西研の関口です。中西研では、日々、クリエイティブシンキングのために様々なトピックについて議論をしています。

今日は、その中でニーチェの三段の変化とクリエイティブシンキングを、クリエイティブシンキングによって頑張って結びつけて見たいと思います。ニーチェに関する考察は、間違ってる所が多数あるかもしれないのですが、その点はご勘弁を…。

三段の変化とは、ニーチェが『ツァラストラはかく語りき』の中で語っている話で、簡単に言うと「精神が駱駝となり、駱駝から獅子となり、獅子から幼子になること」を言います。

この三段の変化は、精神の優劣という話というよりも、新しい価値を見つけるために必要なステップの話といった方が良いでしょう。すなわち、ニーチェは「ラクダ→獅子→幼子」という順の精神の変化によって、新しい世界を獲得すべしと言っていると考えている訳です。

駱駝の精神とは神からの「汝なすべし」を守り、重苦しいものを背負ったラクダが砂漠へいそぐように、私たちを精神の砂漠へと導く精神だと考えます。

精神の砂漠へ達した私たちは、獅子の精神へ変化を遂げます。獅子の精神は、「我欲す」を欲し、「汝なすべし」と私たちを支配する神と対決します。ニーチェは、獅子の精神では、新しい価値を創造することはできないが、新しい価値を創造するための自由は獅子の精神でなければ獲得出来ないと言っています。

そうして自由を得た私たちは、幼子の精神に変化します。幼子は忘却であり、聖なる肯定をもった精神であり、自由を獲得した獅子でさえ出来ない、新しい価値の創造を可能とします。そうして、自分の意志を意志することを可能にすると言います。

そんな三段の変化に関するお話でしたが、研究活動やモノづくりにおいても同じように三段の変化が必要だと考えられないでしょうか。

すなわち、まず駱駝の精神。研究活動やモノづくりの世界では、神様は存在していませんが、イコール既存の常識、権威、お金と考えましょう。この駱駝の精神では、それらに絶対的に服従します。盲目的に上からの言葉を聞き、作業を行うことによって、僕たちは研究の砂漠へと向かいます。

次に獅子の精神。通称反抗期の精神です。獅子の精神は、「我欲す」ことを可能にするべく、「汝なすべし」と対決するわけですが、結局は中学生的な「親が〜〜だから○○する」という親へのアンチテーゼのための行動でしかなく、「親ありき」の精神です。この段階での研究活動やモノづくりは、どんなものであれ結局はまだ、神(常識とかお金)に支配されていると言っていいでしょう。親という存在が無ければ、そもそも反抗期なんてものは存在しないように。

つまり、この段階の研究は、何かに取り組んだとしても、結局、支配している側によって左右されています。でも、負けずに戦いましょう。戦うことが獅子の役割ですから。

そうして、獅子の精神で神から「自由を意志すること」を”意志する”ことを、「新しい価値を創造すること」を可能にした我々は、いよいよ「新しい価値を創造する」段階に入ります。幼子の精神です。

さぁ、全てを肯定しましょう!全てを遊びましょう!全てを忘れてしまえ!この段階は、もはや支配なんてものは存在しません。自分の好きなことを好きなようにやれば良いんです。そうすれば、自分の世界は創造され、新たな価値は生まれます。自分が面白いとおもう研究を行えば、そこに世界は創造されるはずです!

と、意味のわからない文章を長々と書きましたが、アイデア出しにしても研究にしても、「常識的に考える→常識と対決してみる→全てを忘れてみる」という変化が必要なのではないかという提言でした。案外、「全てを忘れてみる」という作業は文字通り忘れられてたりしているので、獅子の次にはちゃんと幼子になれるオトコになりたいものです。

まだまだ駱駝の僕ですが、いつか幼子になってみたいと思いますといったところで〆。

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